【歴史のいずみ】千年の都の生い立ち
あ鈴木さん こんばんはこんばんは鈴木あごいてますね 大丈夫ですねあ良かったですチだりまして はい繋がりましてですねじゃあちょっと そろそろ 始めていきたいと思いますはいえま皆さん こんにちはマーチンですこんばんは こんばんでえっと動画ではですねあの一応 YouTubeチャンネルでマーチン チャンネルをえ企画とか運営してるんです けれどもま動画でほとんど顔出しをして なかったのでま初めての方は初めまして よろしくお願いしますでえっと今回 ちょっとコラボ配信をしようと思いまして させてもらうわけなんですけどもこの コラボ配信ではですねあの過去に私が公開 してる動画をテーマにですね毎回ですね あのゲストの方お招きしましてライブ配信 をしていきたいと思っていますで1番最初 今回第1回目はですね千年の都の追いたち とまタイトル対しまして 宮ですね宮子とか宮天皇がま住んでいたり とか政治とか行っていたそれについて考え てみたいと思い ますでゲストはですね今回あの都子テーマ にですねすでに書物を執筆されている鈴木 淳さん ですはいでちょっとあのま歴史愛光化の ですねまソーシャルグループ歴史マイン ドっていうのがあるんですけどもま鈴木 さんはその主要なメンバーとしてですね 非常にま活躍されてるってことでま あんまりプレッシャーかけたらあかんです かいまはいじゃあまず始めちょっと簡単に ですねあの歴史マインドの活動ですとかま 自己紹介ま個人の趣味ですとかねそういう のちょっと簡単にお話できたらと思います のでよろしくお願いしますああこんばんは えご紹間に預かりました鈴木と申しますえ 本日あのなんとこれあの初め初めてなん ですか第第1号ですかああの YouTubeとしては初めてなんですよ あのFacebookとかあの別のはい やつでは何回もやってたんですけどもおお ねそうですかですからえっとちょっと割と 見てる人もああのライブでは少ないかも しれませんけどもまたそのずっとこれ アーカイブで残すつもりですのでああ後 から多分見てもらえると思っていますあ なるほどあこれはもうあのはもう1回目と はちょっとあの実は念頭になくて参りまし たねちょっとあのえあまりにもちょっと あのあのしょぼいゲスで申しございももう 非常に恐縮でございますけどあの ただ私的にはそういってそう例えば Facebookのライブとかの拡張って ことではいはいまそんなに変わらないのか なと思ってるんですけどもいやいやいや いやいやあのはいえっと鈴木と申します あの普段あの大阪市内のまあまああの木崎 百貨店なんですけどもあのそちらの方で サラリーマンをさしていただいてもう丁年 に至たろうかというところではございます けども一応働かしてもらっているという ところでございますえ出身はもあの大阪の 豊中という場所でございましてでえ一時 あの奈良にしばらくおったんであのまあの 奈良好きなんですけどねえまあの今の ところはもうまたあ豊中に戻りましてえ 在住とはいえいうことでございますえっと あのまま学生の頃から一応な日本市の先行 はあの関西大学というとこでやっておった んでございますけどもあのえっと 高松塚の発掘で有名なア市教授ですねで あのあの方があの僕の在学当時 いらっしゃいましてであのそんな偉い先生 と知らんとあのこんなダミ声のおっさんや なあと思とったんですけども実は後で ものすごい先生やということが分かりまし てでえお恥ずかしい次第ですがあのもう 大学時代はもうあのもう学問すりゃええの にもうねあのえ体育会ばっかり行ってまし てでえ入り浸っておったような状態で ございましたんでねあの もうあのこれもあるあるなんですけどもね 学生の時にもっと勉強しておけばよかった ということを今頃になってね思っており ますで えっとそんなこんなであの一応まあの私の 方はえ大阪に縁のある人間ということでえ まあまあ生まれも育ちもというのは おかしいんですがもう学校までえそれから あの就職も財産の百貨店でしたんであの もうずっと大阪ということになっており ます えですからあのま純粋バオみたいなのは おかしいんですけどもねまあの自の人間と いうことになろうかと思いますえちょっと あの西に偏った投稿も多いかも分かりませ んがということです普段はまあの普段は 趣味はそうですね音楽ジャズけの音楽を よく聞くのとそれからあの映画が好きです ねであとあのあのそうなあ模型を作ってる んですね飛行機のねで飛行機メインでえ あのそれが好きでということもあるんです けどもまあのメインのその趣味ということ になるとやっぱりあの え旅行もガテラということにはなるんです があの各地のあの史跡を田房したりとか いうことが好きですあの現場が好きなので え例えば遺跡であるとかえそういったとこ の発掘にちょっと参加をさせてもらったり とかそれからあのこれ中世の方なるんです が山白とかねえそちらの方もあのネは 大好きでもちろんの古墳も好きでであの 古墳に関してはあのどちらかというとあの 形をめ出るというよりもあの石質に潜り たがるタイプでございますはいあの立派な 石室ということであればあのご紹介の方は 多少なりともあのできるかと思いますので えそちらの方のご希望の方はどうぞお申し てくださいと喜んでと思いたしますはいえ まそんな感じですかねはいああなるほどま 歴史前のに関してあいいですかねああ マインドねえっとちょっとませっかくです ので今回も皆さんに紹介よろしいんですか はいどうやってくださいFacebook のねえこの後またあの続きでマーチンさん の配信の方に登場するかも分かりませんが え東京の方のあの津山さんとねあのえ福岡 博多の博多かなあは財布かなあの出身のえ 出身のあのなかなか気持ちの いい男でございましてはいあの彼がえ メインになってあの私は数名とあの一緒に やっておりますでえっとま歴史の方もあの もう何冊も出しておりましてえ時代とか それからえあのなんというのかなあの タイムリーなえ話題に沿ってえいろんな本 をみんなで あの156ページずつね書いたりして絵画 ドラマとかのテーマにこう合わせたりです とかね毎年な結構やられてますよねえ今年 の方はもうこんな感じでねあのちょっとま あのイラストレータあのメンバーさんが いらっしゃったんでちょっとこんなあの紫 式じみた感じでえはいあの表紙の方を リクエストですね光るのえ書いてくださっ た感じなんですけどもねはい平安時代が テーマでございましてま私も苦手やったん ですけどもねあの頑張ってちょっとあの都 について書かしていただいたとで今回あの 麻人さんの方にそれがちょっとおに止まっ たということでえあのえいくつか質問も 頂戴してましてえ嬉しいなというところで ございますはいあどうもありがとうござい ますあの一応鈴木さんも大阪出身ってこと で私も基本的に大阪なんですけどもただ 大阪でもですねあの昔の国でいきますと私 の方は先週の国でしてでスの国鉄でどちら かと言えばあれ切の国なるんですかねはい そうですねのであの南の人間からしたら 結構あの北の方はあのもう優雅と言います かこう金ってイメージが んあのべな大阪でもの方がかまダジマテル とかあっちの方で結構荒かったであの今は 私も喋り方こんな感じですけども地元行っ たらもっとこう汚なくなったりしますあ 言うそうなね表編しはうかもわからない そんな感じですかはいはいはいでは ちょっと もう次行きたいと思いますけども とりあえずまず最初ですね私の動画から ちょっと一部抜粋でこの宮に関するお話を ちょっと最初にさせてもらいたいと思い ますのでちょっとよろしくお願いしますお 願いします で えっとこれ か応今これ平安鏡についてっていうのが 過去にあの平安神宮っていう動画でこれ かいえっと紹介させてもらいますはいはい はいはいでま泣よグス平安球7904年 大体これがあの思ってに出てきまして杉木 さんのあの本でもね1番最初にこれが出て きたというところでま学生とかま皆さん 馴染めの深い極にはなってると思います けどもでこの794年にですねあの幹部 天皇がそれまで奈良の平常教にあった都を ですね新しく平安鏡に戦としたってま言わ れてい ますで理由としましてはあの増大化した 仏教勢力との決別がま戦との理由でしてま 当時でしたら奈良には あのナント6州もしくはナント陸州という ま6つの大きな仏教ですねのがありまして まそこの権力を持っていた言ますか結構 口出しするになってきたんで多分そっから 逃げてきたんじゃないかとか思ってたりし ますでですねあの戦闘続きが異常でき たってことなんですけども45代の商務店 の時が特にすごくてですねこの人まず えっと商務店の最初平常橋にいましたとで ま平常教後っていうのがですね今あの奈良 のですね大和西大寺っていうま近鉄の ところのま駅のま近くの大きい広場の ところにもこう復縁されてたりはするわけ なんですけどもでまずそこにいましてです ねそっからですね国教と言いまして奈良と 京都の県境の京鳥のところには移りました でその後ですねしの宮あのこれし焼きとか で有名だったりするんでそこに移りまして そその後大阪のナの宮にセトしていますで これえっと名のみはですね今のあの大阪城 の南の方にありましてこの写真っていうの も私が撮影したものなんですけどもその えっとナ宮のこう横のところにですね歴史 博物館っていうこう大きい建物がありまし てその上からからこうちょうどね景色も 良くてですねあの取らしてもらっています でそこからですねまた国教に戻りましてで 最後は平常橋という風にですねえっと1台 この商務天皇の1台でですねこう6回を線 としてるわけですでついでしばらく置いて 今度50代の神天皇の時代にはままず最初 に長に移りまして平安鏡にこう移ってきた というまこういう感じになっています でですね宮子時代はその後ですね基本的に 京都でして平安鎌倉室町江戸で明治新まで 基本的に京都ですで実際に宮があったのは 微妙に位が場所がこう変わってたりはする んですけれども基本的には京都の中に千年 料あったというとこになってますで明治 以降はですねまあまご存知だと思います けどもまあの都子ってか天皇がそ場所自体 はですね東京の方に移りましてですね公共 ですね昔のあの徳川幕府が江戸城であった ところの跡地に高居がですねえ移りまして 今に至ってるとい状況ですで平安鏡につい てなんですけども基本的あの党のですね 長腕にこう習って作られた計画都市でして 特徴といたしましてはあのこう55番の目 にこう組み合った左右対象な上房性になっ ていますで1番この北家のところですね代 代理って呼ばれてましてまここがですね 本当の平安鏡の中央省庁で政治とか儀式と かですねそういうのを司っていたところ ですでなおかつあの天皇がこにも住んでい ましたというこですねでこの大代理の正門 がですねまスBlack門と言いますでス Black門からずっと中央にこう広いま すじ大通りっていうのはこれこの後も多分 出てくると思いますけども弱通りがあり ましてで一番南の方がですねラジオ門 ラシオ門って言いますでまラジオ門って いうのはまアクター川竜之助の小説になっ てたりですとか黒沢の映画になってますで 私とかでもあの学生時代国語の教科書でも こう羅承門がこう出てきてたわけですと それの舞台がまここだったというと ちょっと考え深い思いがしていますで当時 さえっと右京佐にですね各々あの信吾寺と して当時祭がま建設されてましたでこれ 右京作はですねこの代代理から見ての右京 作でして南から見たらこう左右攻逆転はし ていますうんでこの当時なんですけども えっと新幹線で東京に行ってですね帰って くる時京都過ぎて私も大阪なんですけど 大阪新大阪に向かう途中で最初にこう夜と かでもこうライトアップされてのが当時 でしてあ関西に帰ってきたなっていう思い に浸ったりしていますで祭事の方ですけど もえっと現在はなんか公園になってですね でその幸治ってお寺自体はなんかちょっと 近くにこう映ってるようなんですけども今 基本的にあのないって言いますか復元され てないような状況 ですでこの平安鏡ですけども現在とは ちょっと昔1が西ましてですねで家事とか ですねそれで何回も焼けたためにですね 現在のあの5所ですね京都ある5所の方に こう移ってますで大2ランでもこう焼け てる焼けてるんですけども大ランは京都 五所の方にこう移った後でまこう起ってる ことです起こってい ますで平安神宮になるんですけれども平安 神宮自体はですねあの明治時代にですね 明治28年博覧会こう京都の方でありまし てですねのシンボル的な存在として復元さ れました今のうちにあの岡崎ですね京都の 東の方のそこに復建されてましてで スケールがですねそのまま持ってくるので なくてですね代代理の大体5/8の方にこ 縮小って言いますかちょっとシュリンクし てですね一部をこう持ってきたような状況 になっていますですので平安軍を訪れます と当時のあの都の雰囲気にちょっとしれ たりするわけでとてもいいところ ですっていうのでとりあえずあの平安神宮 とえっと都について説明しまし たなんかちょっとぐらいなんか補足という かなんかありますか一言か2言ですああ いいもうあの分かりやすいですねはいあの とても真似ができない素晴らしいですあの 多少まそうですね諸説があったりとかも あるんですけどままたありましたらこ後ろ の後半でですねじっくりちょっとお話しし ていただければと思っていますかしこまり ましたはいすいませんそんなはいはいで あともう1つですねあの宮ついても ちょっと簡単に説明してみたいと思い ますでこれがえっと明日の清原っていう ところのえっと動画から抜粋したものでし てで明日の宮はですね清美原はですね基本 的にあの神部天皇違うすいません天武天皇 と次藤天皇ですね2台に渡って営んだ宮に なっていますでこの清原っていう名前なん ですけれどもえっと実は天武天皇が病気に なってる時にま 高々ですねえ高々の自党天皇がですねあの 病気兵を願ってですね清原っていうこう いうまあな病気治って欲しいっていう思い を込めてえっと命名したと言われてい ますでちょっとそれ遡るとこえっと672 年ですねあの人身ドランていうあの古代 市場で最も大きい内線って言われてるもの がありましたとでこれは何かってま言い ますと天字天皇ですねこれこの天字天皇は えっと中富のかとって元々言いましてあの 大下の会心ですね石ぬに勝利してあのそが 子を滅ぼしたま天皇になるんですけどもで その人のえっと息子であるお大友のみこ ですね弟である大雨の王子がこうえっと 戦った戦いになってますで基本的に大友の 巫女がえっと天皇をそのまま継ぐわけなん ですけどもそれにえっと意を唱えたのが弟 の大雨の王子でしてまある意味空デタ みたいな起しわけなんですけどもえっと この下側が買っちゃうということに結果的 にはなりましたとでその時ですねあの天治 天皇は滋賀県大江の国ですね滋賀県の琵琶 の横のとこに大津宮っていうので宮を営ん でたわけなんですけどもそっからですね 大和の国の朝宮にこう都をもう戻したと 言いますか戦闘しましたま都を映したわけ です ねでえっとその翌年にですね大雨の王子は 即して天天皇になりましたでそこの場所で ですねアカの宮でですね天自党と2台に 渡ってですね立量の国家の基礎を築い たっていうことで日本もえその党とかに 習ってですねあのきちっとこう政策と言い ますかえっとせ制度をこう整えていった わけ ですただしですねこれえっと694年です から大体えっと20年後ですね20年後に ですねあの富ままた次藤天のが藤原の宮に もっと拡大と言いますかしてですね戦とさ れましてアの宮廃止されまし たでこのアカの宮についてなんですけども アカの地には実はですねこう過去にこう 複数の宮がありましたでこれら相称してあ の宮と呼んでいるわけなんですけどもで これ古い順から言いますとですねまず除名 天皇があか岡本宮を増衛店作りましてです ねその後ですねこれ家事でえ高玉天皇が えっと板の宮の方にこう移されていますで それからしばらくしてですね西名天皇が5 明日を岡本宮にこう移しますでその後です ね天天皇がですね同じ後岡本宮の跡地に ですねてかそこの場所にえっと改築増築 ってことで飛鳥清原を作りましてま増築と いう意味なエエビの骨角をえっと作ってい ますたこの端っこにですねでこの想像図 これ想像図ですも基本的にですねあの鈴木 さんの著書であるあの本ですねちょっと 利用えてかえっと参考にさせてもらいまし たありがとうございましたっていうとこ ですでえっとこのアカの岡本宮になるん ですけどもこれだけちょっとこうほあの 角度って言いますか生みずれてるわけなん ですけどもこれがですね実はあの地形の 傾斜に沿ってま増援されたからってなって まして実際にこの横にあのアカ川という川 がこう流れてまして基本的にそれにそう いうような形でこう作っていたようですで その後の台からですねあの大規模なこう 造成がなされまして正方位ですねこう ちゃんとこう北向きていうか方位学的に こうちゃんとこう向くように全部作られて い ますでまエビのこ角なんですけどもま天の 時代にですね天部天皇の時代に作られたま 大国電と考えていたりとかこれちょっと あのネットとかで調べたんですけども色々 諸説があってですねちょっとよくは何使わ るか分かってないようですけども一応ま大 国電と考えられていますでこれ実際にです ね清原のあのイメージって言いますか想像 図なんですけどもこの右下にあるのが えっとエビの骨角でしてとこの上の方に こう建物がこう何個かこう並んでいますで えっとまトノアドの大アンドの内アンドの かあったんじゃないかっていうとこで 分かってるわけなんですけどもこれえっと 3の塔が3の兵がありましてこっから外が 主に政治とか外交的なものをやってた場所 このアンドのがなってましてで天王さん 自体が住んでたのがこのオ&のですねあの プライベプライベートな空間ですねであと うアンドのも多分私の想像ですけどもあの 交合ですとかまそれに使える人たちがえい てたんじゃないかと思ってい ますうんでこれがですねあの実際のアカの あアカの宮跡でま復元されてる写真の一部 でしてこれがえっと実はあれですねあの 最初ちょっと今先申しましたあの一の編と 言いましてあの中富の蒲と中中野大江の 王子と中富のかたがですねあのそのイルカ での倒した舞台になったところではない かって言われてると思ってるそうでしたっ けていうとこなんです けどままそういう説もあると言いますか はいはいはいというところでざっ説明させ てもらいまし たでえっと一応鈴木さんの方がですね先も あの自己でもありましたようにこういう 実際の発掘ですねあの遺跡とかの日の宮と かもえっと何度も経験されてていうところ でちょっとその辺についてお話し いただければ嬉しいかと思ったりします はいはいはいえっとそうですねあのま そもそも都の話ということになるんです けども えっとま本来その都がねえ えその大きくクローズアップされる きっかけになったのがえそれまでと違って あのなんて言うんですか外交的な圧力と言 んですかねあのそういったものがあの関係 が深いということが言えるかと思いますで えっとまあの日本っていうのは日本レドは あのユーラシア大陸の1番東の端っこに あるわけででえ日本から下手てますけども あの大陸の影響やっぱり受けていくという ことが出てくるんでえそのアカに大きく都 が発展したというのはそのこととあの 関わりがやっぱりあるかなとあのそれ以前 はあのあの三さんねえ大宮神社のあるあの 奈盆地の1番え東の端っこになるんですか ねもうはいあの山の伊賀の方に入っていく 手前ぐらいの感じですかあの山ぺのところ にえほぼほぼあの王の場所があったと まあまあ携帯という携帯天皇というあの 三門のあのちょっとえイレギュラーな例は ありますけどもそれ以外を言うとえほぼ ほぼそのえ川とそれからあの山部そのえ 特に宮という点で言えばえおそらくはあの 奈良の1番東の端っこがえメインの場所 やったとえ多分あの場所良かったん でしょうねあそこあの少し高台になってる 感じではい 山の道のこでえそうですそうですそうです はいあの歩きやすかったんだろうなと思う んですけど昔はもっとそのあの奈盆地の 真ん中ありがあの非常にあのベタっとこう え湿地みたいなところが多かったとかねえ そういう話も聞きますあの古墳なんかもう あのうんうんちょっと中央部あたりだと あの島のように見える場所に古墳を作って いる霊とかあのそんなものがあったりする のでえどちらかというと住みやい場所に都 が都というか集落ができていく傾向がある のかなとであの日子の橋日子の墓と言われ てるハハもあのやっぱりあの同じように 桜井にありますからねえええであのあの 場所からえ その奈盆地のどちらかというと西寄りに 近くなるのかなあのより川地に近いという 言い方もできるんですけどもあの南側の 端っこのところにえ王が移動していくと いうきっかけになったのがえおそらくは あの大陸の情勢の変化ということになると 思いますえ時代で言いますと小徳大使とか とえ水子天皇の時水子天皇の時代ですよね ぐですねあそのから南ってホ寺とか元アカ の方って言いますかえはいあの良の中央 元山えですねはいあのえ水子がそもそも あのそのという点のあえ直接あの進化に 殺されたというあの衝撃的な事件の後あの 即をした三門堂ですのでえまあの時を 同じくしてあの東アジアではものすごく 動乱が起こっているということもあってで あのそれぞれあの朝鮮半島とかでもあの クーデターとかがついでるんですよねああ ええだそれ以前はそのあの南北町という 時代でなんかあのわさわさとその中国が北 と南でなんとなくあの王朝が乱立し てえあのまあまあ中国の本土のところは そう荒れてるんですけどもあの周辺諸国は どちらかというとその長大国の圧力を受け へんあねええあのものすごいパワーのない 時代ですねあのウクライナの隣にロシアが あんまり弱っててえ出てけえへんみたいな 感じ なはいはいそれがあの統一されたことに よってそのうん非常にあの周辺が圧力を 受けたということがあるのがあのその水子 天皇の時代に そのそのなんて言うのかなあの場所があの 大きく変化したということに至たろうかと 思いますああなるほどえっとあはいあの 画面を共有しちゃってもええあどうぞ 大丈夫ぜひぜひお願いしますはいできるか なえ画面共有画面共有えっとですよね やっぱり あこれだ画面共有してみますはいお願いし ますはいえっとです中国のとかそういう 影響がやっぱり大きかったっていうところ はいえっと衝撃を受けた剣士という話で あのえっと和の五王有名ですよねあのえ和 の五王の時代ま4隻ですがあのその時代 からあのしばらくあの剣士がえていて平和 な時代いうことになりますかねであのその 時代をしばらく立ってえそろそろちょっと あのなんか大陸もわさわさしてるみたいや からえ行ってみなあかんなということで あのええでえっと水子天皇の時代にあの 剣士を派遣したということですであの ひずるとこの天使の話は有名ですよねあの 出てくるのではいあのかの有名な大運が 作ったあの防君とも言われてますがあの 陽大ですねあ弟はいはいえはいはいえ彼に 謁見してあの弟が起ったという話は有名 ですけどもあのそのあえっとはいはいあ ヒール国っていうことに対してですはい はいであのまこれに関してはあの俺の前で お前の国は天使を名乗るのかということの 方に起こったんじゃないかという説も実は あったりもするんですけどもねえはいで あのこれ野も芋が派遣されてあの排生生と いう役人を連れて帰ったとえそういう一な ですけどうん 実はその前にあのだけに記載されてて日本 に記載のない師がおったということがほぼ 確実やなと言われてましてそうなんです ねえはいあの随所の和国殿というのにね あの和という国から死者が来たとであの この時にそのしばらくあの都合がえとった んでずのこれあの陽大のお父ちゃんの文定 あのがねえ あのという人なんですけどもねんあのずを 創業した方がでえ初代の皇帝があの聞く わけですあのどんな風に政治を取っとるん かとであのそれでつらつらとそのあのあり のままをその死者が答えていくわけですね でえっともうあの夜中にを来てでえ天皇は それから祭祀とかお祭りをやってせ祭り事 をやってでえ早朝にはもう あのそれを終わってしまいますと世開ける 前に終わってしまいますとえその他あの国 の成り立ちを色々聞いたんでしょでえ文定 は大いに義理なしとえそれは合理歴やない ねということをあの言うたそうなんですね であのこん時の死者が多分あの衝撃を受け たんだと思うんですあのあまりの違いにと でえ朝鮮半島もわさわさやってるしあの ちょっとずについていこうと思ったらあの この国のこの国に近いことせなあかんし あのとりあえず来てもらわなあかんという ことであの宮殿それまではいあった宮殿を 新たにちょっとあの大規模に作ろうという ことになってえこれがあの日本の首都の あの総理官邸と言った方がいいのですかね あの官邸をあの中国風というかあの世界の スタンダードに合わせて作ろうという動き の1番初めやという風に言われてますでえ その排生生ですねあの死者がやってくるの でひとまずあの張田アのすぐ北なんです けどもねはいにあの え大垣があってでえそれで建物が真ん中に え大きなものがたっとってでえ門があって えさらにその外を垣根が囲っていてという 形でえその2つ目のもの中の方で え役人とそれからあのつまり豪族ですねえ たちとそれから天皇がえ長義をして政治を 決めていくんやという形はいを見せなあか んとああえそれで春田の宮というあの石敷 のえ庭を作ってねそこであのここで話をし て満年という形をあの見せていこうという 風な動きをあの入れ物から作っていった わけでその時にあの大使道ってありますよ ねあの大阪の方やったら分かると思います がえあれをあの整備やってでえ麻からあ イカルガ通ってでそれであの船で大和川 通ってうんうんうんうんあのナのあの港の あるえ県のつく港のあるナまで道を通そう ということなってポンと一本道をあの一生 懸命作りはったということでえ実際にあの ハ生生はその道を通ってで大和川船で多分 渡ってでイカルガでその上戸のあの作った あのホリとか宮のところであ建物がある とこやねんないうのを見せられながらえ そこでえ休憩をやってでえあでえ体動を 通ってえそしてえあの張田の宮に入ってで 謁見するという形を取ったのがこの600 600年から607年の間に起こったあの 出来事やとなるほどえこれあの必死の パッチでちょっとあの追いつこうとしたの が次の図に見えるとこなん ですあれ打てこれ共有ってしてもらあして したと思うんですがああ見てないような 感じであの共有ボタンを押してはいはい はいでえっと画画面をなんか選択し たらいいと思うんですけどもはいはいはい これでいけると思うんですけど ね見ました来ました来ましたあ来たかはい えっとさっきの生殺のところはまえとして えっとこっちですねはいでもちょっと黒い ままですねまだよそうですかなんか重たい のかな 重たいのかもしれないですねうんもう ひとまず口で行っときましょうかあそう ですねそうです出てくるかもしれませんし えはいえっとあの水子天皇はそれまであの えバックアップされてたのがえ忙しつまり その割と進行の豪族たちで彼らの根拠地が アカとかアカ周辺やったんですねであの そこに来てたのがあの朝鮮半島から来た あの人たちうんまくだとか白木から来た人 もおったみたいなんですけどもねであの あの辺りからあの朝鮮系の遺跡とかが たくさん出てるのは面白いですあのオドル があるっていうのはねあのあそこであの 色々うろうろ歩き回って初めて見ました あのなんて言うのかなあの来たばっかりの 時は日本がこんなに暑いて知らんかったの で えはいあの普通日本はあのほったて柱を 立ててえ風通しのうを立てるんですけども あの向こうからはいから来た人たちは当初 そのえ土壁の大壁というそのえなんて言う のかな風通しのあまり良くないあのえ通気 性が良くないけどもあの暖気が外に漏れ ないといううを作ってであの下にあの オドルと言ってあの床下暖房ですねえかど からあの遠藤煙飲んでる道を煙突の道を 引っ張ってでえにをする日でえ中を 温めようというそういういう作りのうが いくつかあの出ておりましてこのアスカと それから大津にあるみたいですねおおで あのそういうものができたできてたりとか してあの先進地帯やったということが 言えると思うんですけどもあのその人たち の力を背景 にああ結局はいあのはい中国から来た人 たちの技術でそういうのも作ったっていう 感じですかねそうですえ朝鮮半島の人たち があのバックアップするそでさにそのソの バックアップを受けた遂行ということに なりましょうかであの彼らが えその自分の根拠地に近いところに宮を 建設に尽力してそれを作ったとであのその 後除名とか光玉とかあその一の辺に向かっ てどんどん進んでいってで明日の宮の時代 になるんですけどもえいわばあの蘇市の懐 の中に宮を作ってその増したとに一に アカラも作ってアカダりますねはいあの 巨大なガランと宮をセットでここでえ政治 を大陸風にやりましょうということが 始まったという格好になろうかと思い ますアカラも私もあの小学校の遠足か なんかで行ったんですけどもえ実際結構 大きかったみたいですねあの今ある姿異常 に当時はええあの籍がねあの残っててで それに沿って歩くとなかなか あの書籍自体も大きいのでこの上に柱立て たんやなということになるとあなるほど なかなかなもんやなという感じではござい ますねえ はいでえっとでえなかなかちょっと重たく て出てくれないのでそうですねはい こないだなんかテストの時はなんかすっと 出てましたけどね見えてましたけどねあの ええなかなかちょっと出てくれないのでえ あのもうどんどん口でっそうですねもう 後頭でどんどん願ますはいせっかくの配信 ですのですいませんはい そうまあのうん先ほどあの図でご覧 いただきましたよねあの3つのあ正確にま 4つなんですけどもみやがあの重なり合っ てえあるというとあそう出しましょうか今 ちょっとだけあ出してくださいますかはい はいちょっとじゃあ共有解除って言います かしてもらったらはいええちょっとね カチカチになっ下元ってなぜか動かない ですちょっときついのかなでも顔は ちゃんと見えてますてかカメラもそうです か良かった綺麗に見て画面が覚えてくれ へんのでちょっとあのはちっちゃなあれ やわえっと思とるんですけどちょっと結構 厳しいのかなあじゃあこっちからなんか 強制的にもできるみたいでそうですかあ じゃあもう一旦切ってもらって多分大丈夫 だと思ますあのアカの宮のやつですよね はいはいはいはいこれで多分ねこれですよ ねきっとこれかなこれはいぐらいまこれ ですかねはい見えてますはいはいはい えっとね えとこちらではちょっとまだ見えていない ですがそうはいえ3つ重なってますかね はいえっとあの重なってる図が見えとっ たらえあそうえっとねえってる図ですあの 岡本宮からいたあ今ちょっとだいぶ時間 遅れ出ますねああちょっと重かったかな はいあこれです ねあ今出てますあ出てます出てあの YouTubeの方には出てますはいああ 切ってしまったんですけどねすいません えっとはいはいえっとですね あのすいませんねもうあ えまあの時代背景とかはねえともかくとし て えっとよいしょよえっとあのかなってるの の方の話がございましたねはいはいそう ですねえでえっと当初あのまどちらかと いうとあのこれえっと西に向かって ちょっとあの斜めに触れとるというのは あのおっしゃっていた通りあの飛鳥川が 流れていてあそこでセチになってましてね であの少しえあの正位で言うとも自体が あのその斜面に沿ってというのはおかしい のかな ああ ちっとあれちょっとすいません え途切れちゃったようですけども これは軽くするために お待ちください [音楽] ちょっと鈴木さんのが接切断されてしまっ て切れちゃったみたいですの でと今確認してますけど もあこの間にですね えっとん あすいませんちょっと今鈴木さんの方が えっと1回リブートって言いますかえやっ てまし てじゃじゃその間にちょっと私がバナじゃ ないですけどもえなんか食べ喋らせて もらいますけども えそうです ねああそうそう私のちょっと分かってる 範囲でいきますとま この天治天皇が元々大江の国にこうおられ たわけなんですけど もであのここえっと大江神宮っていうのが ありましてであの 天治天皇があの100人種の第1種にも こう選ばれてるってことでこのオミ神宮が その100人種のも正治とかして結構あの その100人種の好きなあの大会とかもお 正月にこうやられたりしてるところがあり ますで大津宮はそっから確かちょっとだけ こう南の方に下ったところにですねあり まして1回あと大神宮に歩いて行った時に はですねまあこういうのがあるんだなって 言って当時はあんまり意識はしてなかった んですけども今から思はまもう見やがった というところでして えすごいかなというとこですねでアカの方 なんですけども えっとまこれなんか実際に結構あの鈴木 さんの事前のお話ですとかもしくは えっとYouTubeもこの歌原高校学 研究者さんたちがですねこの発掘の様子と かこう YouTubeとかの動画で流されてる わけなんですけども結局この あの予算の範囲でこうちょっとずつなんか こう掘ってるような掘っていってですね そのためにこう書籍なりその跡がですね こう見えて見えてきたと言います か作ってる途中ってが復元してですね 分かってきてるところですねで今でもです ねまだこのアカ清原っていうのがこの ブルーで囲ったところが今ちょ分かってる 範囲なんですけどもさらにこの北の方にも ですねこうちょっとずつこうえなんかある ぞっていうことがなんか分かってるみたい でしてそこはまたえっと予算が出てですね ちょっと後年にちょっとずつこう掘って いったらまた新たにもう少しこう広かった んじゃないのっていうのが多分分かって くるんじゃないのかなと思ったりしてい ますでこの昔のところがなぜこうこういう 方向であったかとかいうのはちょっと私は よく分かっていないんですけども多分この 辺が鈴木さんとかやったら分かるのかなと か思ってちょっとお聞きしようかなとか 思ってた次第なんですけど もでえっとこの最初岡本の宮があってで次 の世代でこの伊吹の宮の方にこう映るわけ なんですけどもでこの時結構なんか家事と か放火っていうのは昔あったみたいでして でその家事っていうのもま色々要因はある んですけどもそのえっと政権とかにこう 反対する勢力とかですね反感を持ってる人 たちがまわざとこう火をつけてですね えっと燃やしえ火をつけるっていう場合も あったよう ですなのでその昔ですねその木造でこう なんか火がそのままこう燃えちゃうって イメージだったんですけども実際にはま フォカみたいなのが多かったっていう ところでしてでやっぱりあの昔から政権 アトいて言いますか権力ラトいっていうの がありまし てであの はい大体その天皇家もですねあの台が 変わるごとにこう権力争いとかですねあの さっきのあの人身のランがもそうだったん ですけども息子弟とは人身のラはこれあれ ですね あの天治天皇の子供と あの弟がえま争ったわけなんですけども 同じこう兄弟同士でもイボ兄弟でこう争っ たりですとかそれが結構その直とかでも よく出てくるんですけどもその代が変わる ごとになんか繰り返しこういうのが起こっ ててですねはずやっぱりその同じ天皇区で もそういうのがあったり するのが歴史をなんか繰り返してると言い ですか面白いところであったりするわけ です うんちょっと厳しいかな鈴木 さんであとはそうですね [音楽] これがま戦闘続きは異常でしたっていう話 なんですけど も これ商務天皇が結構あの色々考えてると 言いますかこの宮子天皇中心の宮っていう のをこう作りたいとか思ってたみたいでし てであのみやっていうのもなんかえっとふ 北斗構想と言いますかあの数ですねあの 例えば政治は平常教であやってですねね 経済とかですねあの貿易とかその海に近い 名宮でこうやるっていうですね名宮が えっと政治もやるんですけども実際のその 経済の地としてもその都としてですね えっと栄えてたと言いますか機能していた 時もあったみたいですで えっとま商務天皇はですねこの大なんか 色々構想があって西の方のえっと 政治って言いますか青州とか何屋の宮にし まして東川はですねしの宮もしくはその なぜかその長野の方にもこう宮を作ろうと いう構想もあったみたいでしてで えっとでそこそこでこう分担してですね各 ビで分担してこういう政治をしてると言い ますかしようとしてた時もあったみたい ですけどもまなんか色々反対勢力あったの かもしくはその財政的なものとかそういう のでえっとやめちゃましてなんかで最終的 にはあの平常教にこう戻った後はですね あの大仏ですね奈良の大仏そこの増援の方 にこう注力を最終的にはこうしていくよう になったという風に聞いてい ます厳しいのか なお待ちください あれ復活しちゃったか なビデオを消し て鈴木さん聞こえます か聞こえ聞こえます聞こえますすいません これちょっとはいすぎた感じですかね 申し訳ありませんそうビデオビデオ消し ときますわミュートにしてあはいはいあの 声だけの方がまだ軽くなるでしょうしあ なるほどはい失礼いたしましたあいえいえ いえいえあ良かったです復活できてどう しようかと思っいいえ誠に申し訳ありませ んすいませんええ何を喋ってましえっと どこそうそう えっとえっとアカの宮でえ えそうですねあのアカの宮の話そうとかの 話をしてたんだっけはいはいアスカデラが 大きくてえええ巨大なアスカデラですね はいまあの学問とかですねあのそれから 技術とか哲学とかそういうものを学ぶ場所 としてのお寺というのがあのええその学術 センターみたいな感じですかねま経も学問 の1つやと捉えればあの事格ことも含めて そういうことになりましょうかだけどあの そのアスカデラはお寺なのでえ河原で吹い て書籍の上に柱を立ててという作り方をし なければならないということなので宮は まだあのそこまでちょっとその追いつか ないというかあのほったて柱の建物のまま なんですよねああほったて柱ですねええで あのアの宮岡本の宮があの斜めに触れたの え さんんけどあのえであれであののトレンド に直したんですがあのそれだけだと え実はそのあの大国電がないなとあの政治 の中心としてそのあの政府として機能を しようと思ったらやっぱりあの話し合いを する場所がないといけませんねとえ天皇が 大きなそのえ皇帝としてえいしている場所 の前でえ庭であの命令を発するとでえその え各省の省庁の役人たちがえ庭に抜かてえ その命令を聞くという形を朝とるのがその 徴集殿の形なんですけどもあの三門が えその修義を命じる場所にふさわしい建物 がやっぱりあの成長としては必要やねと いうことでえまうんにこれ外国の施設に 見せるためという側面が大きかったみたい なんですけどもええそれであのたらんなと いうことでエビの骨格があの作られたと いう風に言われてましてただあのこれも そのあの東の都とかに比べるとトレンドと ちょっと違うということになるのはその宮 のちょうど北川にも海老の角はもうあの後 から後付けで作ったんでえ建物はできた けども普通はあのそこからにはい向かって ざっとあの道を作っていくんですけどもえ 土地の製薬上それができないということに なってしもてでそれであの新しい宮をその 党の長安とかそれからあの朝鮮半島の三国 みたいに作っていかないけませんなという ことになってえ次の都子の増援に移ると いうことになると思うんですああなるほど なでそれが次のあの藤原宮って言います 藤原そういうことになりますはいで私たん ですけどその藤原今もなんか宮の中で一番 大きかったみたいですねあの山ヤ三山を さらにこう覆うような広さていいますか 放送的にはだから平安鏡とか平安平常教 よりも広かったといいますかはいあのそれ が意外だったんですけど上房をね引っ張っ てということになるとただ実際にはその山 の中にそのえ女房を作ってもその街が できるわけではないの でですからあのあれに関してはあのはい机 の上というかねえ気場で考えたその都市 計画という側面がものすごく強いみたい ですねであれと同じ作り方をしてるのが あのえっとえな中国で言うたらそのえ義臣 から続く北町ではなくてえ南北町の南の方 のあのえ55とかいつとか言われる地域に あった王朝の歴代の都があれに近い形を 取っててえ真四角の広いところの真ん中に 宮殿を置いてで周りに街が発展していくと ああなるほどええ自然ちゃ自然なんです けどもあの外交施設からあのおおこれは すごいなって見せるにはあの舞台装置とし てちょっとあの印象が薄いなという弱点が あってえそれを補正するのがあの塔が作っ た長案っていう都であはいはい一番巻に あの少し高台があってえそこにドンとこう 宮殿を作ってえそこからあのものすごい 広い道路をビューっとこう引いてであの 朱門にあたる一番南のあの都の門からえ 縄文をくるとえだーっとこうあの巨大 なそのす須工事にあたる道が伸びていて 正面に皇帝の鎮座する宮殿がありますよと うんうんえそれをあのず歩いていってこれ はすごいなというのを見せるのがあのその 後のあの都の作り方の基本になっていくと いうことみたいなんですあなるなるほど なるほどた結局真ん中にあるよりは北の方 の方がその道もこう遠く長くなるしはい はいあ歩くのもですな広かったら余計こう すごいなとこう見せるためにってとこです かねそうですねあの中央よりも北の方に こう大国典って言いますかと奥のがですね はいあなるほどなるほどありがとうござい ます中国ではあの対局電っていう言い方を するみたいですけど対極電ああ対局権の 対局ですねえええそれもそれも日本語読み やんけって言われるかも分かりませんけど も体じゃなくて対局ですねはいええであの それで作った大国殿っていうのはやっぱり 中国府にせなあかんということで平常橋に 至るとそのああごめんなさいあの え藤原教ですねえ荒まの宮といいますけど もあのクーデターに買った後の天があの 作った藤原教に関してはあの籍の建物を 作ろうとしたどもそんな え形跡もありながらということですけども あのそもそもそういう大きな都を作ると いう経験がそれまでなかったのでで えっと元々そのアカーも割とあのに近い 状態よりも少し真なところなんではでたん ですけども藤原橋はアカの少し北にある 場所でえやっぱり湿地なんですねはいあ そうなんですねええであのそこに関しては 地盤が柔らかいのであの河吹きのねえ 大きな屋根のある建物を建ててでそれでえ 都を作るという経験値がなかったなかった がゆえに基礎工事がうまくできなかったと いうのがあの非常に大きな要素じゃない かってのが最近言われてますおおでえっと 宮の東川のあの発掘の後ねえーその柱が ガタガタになってるんですって穴の深さが ああそうそれはえあの上にあのそれまで 積んだことない河というものを積んだあの その土の壁でできた牡蠣をダーっとこう 作ったもんやからその今までやったら行け て行けとったやつがえ柱が重みにたかねて あの長さがこうまちまちになってになって たんちゃうかということがでえなかなか その あのなんと言うのかなえ都としての天才を ねえ入れ物として取りにくかったんじゃ ないかなという感じなん ですこれえだからえっと最初はあれ ほったて柱やったら祖籍はなかったんです けども途中から祖籍が置いてその上にこう 柱をこう立てるようになってでさらに えっとその建物がえっとその変はいそれ まで早吹きかなんかだったんですかねええ あのアカの宮の中にあの板の宮と書いて あったのがございましのありましたねあえ 実はあの板そのものが当時は珍しかった みたいでそれで拭きの宮ということなった らしいですはいあの神社で見る日田武器と かそれからそれこそわ武器とかまカ武器と 言った方がいいですかねはいそういう建物 が終了やったところへ板で吹いたりとか その板の上にあのえはい河を乗せたという ことを始めたのがあのこの時期の都の姿と いうことになるんじゃないかとなるただ それが初めてだったのでその河の重さとか ま耐えれるぐらいのこうちゃんと土台と いうかしっかりできてなかったからこう ガタガタではいええ一面としてはそういう はい可能性もあるよというああなるほど 面白いですねえ建築の部分では見るとそう いう感じでそれがあの後にさらに技術の 発展に生かされていくということになって いくんでしょうかねなるほどなるほどええ ええええうん うんそうですね うんあとまあのどうしましょうかね えっとえ展示の都の移動の話もありますが 平常教とかあのそっちのお話の方がいい 感じですかそうですねとりあえずね私があ まあちょっとお話たそう平常教とかの話も そうですしあその何のみのあのダブルのみ はいかはいはいはいはいはいはいこっち側 がなんか面白かったんでその辺が紹介あと あま時間もねあんまりちょっと吸ってます けどもまはいしていけば嬉しいままずは じゃ平常の方から行きますかちょっと映 えっとまあの緯とますかあの前期の何の宮 というのが元々そのえっと展示のあの前の 除名あすいません高徳の時に石の辺の直後 にあったんですけどもねはいえ非常にあの はいあのアバンギャルドな宮でえそこが あのえ党の長案のその作り方を真似たと いうかえそれに沿った作り方をした初めて の宮やったんですがねえであのその後に できたあのがえ藤原教でありえあごめん なさいあの後の明日の岡本の宮とかえそれ からあえ清原の宮でその後それが移転して 藤原藤原の宮 にのえにあのえ徳が何でいぺトライした あの東風の作り方をもう1回やってみよう ということでえ1番北川に宮殿をドンと 置いてというのが今のあの奈良公園のあの え平常の復元の模型のそのもですねはい はいはいでえあれはあの籍があってえドタ の上に化粧板を乗せたドタの上に書籍が あって巨大な柱を立てたえ大極殿があって そこでその前定で え頂のま豪族なんですけどもね官僚たちが えその政治を天皇の方針をその日の朝聞く という形なんですけどもその宮のすぐ横ん ところにほったて柱でやっぱりあの 従来通りの田吹きの建物群があってで そちらの方で普段のうんは取っていてでえ 大国電の方はあ外国の施設が来た時とか あのそういう時に謁見をする場所として 使っていたのだろうとえあなるほどあの外 に見せるために作ったえ大国電とそれから あの主要な行事とかですねあの即位とか あのそういう時に使う正式なところと普段 の政務を取る場所は全然違うとああ なるほどあそうなんですねお隣に機能し てるのがあのその天皇の普段のとかあの そういう風なあの昔の吹のものをそのまま 投した建物群でえそれがあのその隣のあの 大二大国電が今あの奈良公園ところには ありますけどもねえそれがあのその宮の形 であるということになるようであのその北 にも今ちょっと発掘で色々出てきてる みたいなんですがねはいあのそん時の権力 者ごとに宮が存在したというのがなかなか 面白いとですはいあそうなんですね大国典 とか基本的にやっぱり外向きと言いますか はいそういう公式な場っていうか本当に 通常は使ってないんだけどもそういう特殊 な特用にああいう立派なものを作ってたと いうのがなかなか面白いなと思いました はいえはいええテムは特にそのえテムと いうかあの商務はね商務は特にそこを意識 したみたいなんですけどもあの見え方と いうかねえただ途中でちょっと彼はあの 考え方が変わったみたいでえま大国電は あの元々その藤原教にあった大国電を資材 をそのまま引いて移してでえ第1次の平常 平常橋の大国電のところに持ってきて作っ たということなんですけどもえその平常橋 の一番端っこからやっぱりあのえ70m 以上あるあのスザ王子 を正面に据えたあのビスタを構成するその でっかいうん大国での建物をえまるまる 国教に移してしまってでえそこにあの西宮 というのがその後できるんですけどもねえ 同じようなあのえ州の柱使ってるんです けども低い建物ですでえっとその月あたり からえ右つまり東川を見るとおちょうど 東大寺が今ある辺りが見えるんですねはい でえ彼はその都の中心として見えるそのえ 日本の中心であるよというのをその大国で の天皇の権力という部分からえちょっと 90°右に見るとえ教が張り出した先に あるえ巨大なやっぱり大仏でのイラに変え てしまうというそんな風にあの都市計画を 変更したんちゃうかなという考え方があり ますうんそれがあの都の移った時期と ちょうどあの同じ時期に同時進行で起こっ ているというのがとっても面白くてえその 時にあの国分うん立てたりとかそれからえ 行気の教団と協力してですねであので大仏 をま初めはしきでやろうとしてたんです けどもえこがですねえ滋賀県の奥の方で やろうとしてたんですけどもえ軍資の大 反対があったんで結局それはポシャって しもうたけどもええただあのそれ宮として 東国の拠点にしようとしてたえ嫌はあの ありますうんうんうんうんでそれがあの都 が防に動いたのがえまあの氾濫から逃げる というのがあの昔の定説やったんですけど もどうやらその首都もう少しあのえ大規模 に広げてであのホボを経営する拠点に しようという風に考えていたえそれにあの 仏教とかそれからえそうした考え方で民進 を安定させようとしてたという思いもその 辺りあの建物とかの配置に見えてくるのか なというところもあるようですあなるほど はいで今のあのダブル宮というのに関して はこの後もあの実は同じように投資されて いっててえ何の宮に関してもあのこの後 都子がそこへ移ったりとかするんですけど もえええ主にあの外交施設なんですけども ねそこもあの構造は基本的に同じででその 後カムがあの平常橋から移る長岡橋に関し てもあの実際同じような作り方をしており ますうんうんで長岡橋はあの淀川で繋がっ ているのでえ非常に水計としてはあの 血のりを得ているというところとそれから あの割合にあの近いんですよねえ奈良から まだああそうですね傷側をこうずっと下っ ていて淀側にこう合流してそうですそう ですその四角でしたっけ長岡って割とええ ええ奈良の北川の丘を超えるとすぐにあの ま国とかそれからあの傷がに合流するん ですけどもねはいそれがぐるっと抱して 京都の南光を通ってえ大阪に流れていくん ですけどもその途中にあるのが長岡うん そうですねはいはいであのそこの長岡の ところでえ都を作るんだったらあのままだ ちょまだちょっと遠いけど映ってもいいか なと思いやすいんちゃうかという考え方も どうもあるみたいなんですけどもねええ ただまあのあそこに関してはちょっとあの カムがあのどうやらなんとかなんとかあの うんその都を移したいという強い思いが あってであのその時もはいあの何宮の資材 とかをごそっとと引っこ抜いてあの長岡に 移してでそれであの大急ぎであの旗とか それからあのはいはいはい嫁はの実家の あの家系の人とあんえ のかはいあのの王族ののはいあの彼らの 協力を得てあのあそこに場所を選定して 大急ぎで作った宮ということになるよう です大本的に前の宮の建物とかはできる 限り再利用してこう持っていこうとしてる んですよね新しいの方にえええあのそれで あの後期を短縮してあの息にやってしまう という ただあのここものすごい反対にあった みたいでそうなんですねええあの増の責者 のあの式家の藤原種はあの何者かに射殺さ れたりとかこれもまた前代見物事件が 起こったりしてますからあのえ普通あの 放火で焼けちゃったとかねそういうのは あの民衆の反対の意思として現れたりする んですけどうんえ責任者が屋で打たれると いうのはちょっとねであのねそれええ身内 でも色々揉めてあの平常橋に一旦宮を戻す 言うてあの田上店の上皇が戻ってしまそう いう話もあったんですねあの長岡橋から また元に戻すっていう平安鏡にかずに平場 教の方にああまあねあのそれはずっとあの 彼らの中にあのうせしたものがあのそこに 反映されたんではないかなという風に思う んですがあの磁場から切り離すというのが 古代においてうんはもうさら難しかったん でしょうねきっとねああはいあのだから どっちかというと僕仏教勢力というよりも その地域からなんとか役人として豪族たち を切り離すということにやきになってたと いう風に思えてしょうがないですねこは もっとその前のあの天治天皇があの大津宮 の方にまで移したのって飛鳥からあれも やっぱり反対かなり多かったんですかね ええええあん時はあの非常自体のまま言う たらあの海原例の元やったんそっかそっか あの中国からの圧力が怖かったっていうか あれ白への戦いとこう負けてはいそうな です結構攻められたら怖いからっていう ところでもう非常自体でこう映っちゃった というはいあの研究者によってはあれもう あの党に占領されてたんちゃうかという人 もちょっといたりしてあの党は政策的に そういうことをやるのであの自分たちの 役所を作ってで役所から統治するからあの ここがあのなんとかとでと朝鮮半島で実際 同じようなことをやっていてで白木がそれ に反発してであのとうと戦争を始めたと いうことがあるちょうどその時期やったん であのえ大津に移ったの大津は手やったん ですけどもねえでもあの作り方はやっぱり あの1番北に都おいてというやり方をやっ てるみたいではありますなるほどあすい ませんありがとうございます いでえっとへそうかそうかだからえっとち 長岡橋まで行って平安橋の方に今度だから 結局映すってことになるんですねそうです ねはいえあのこれもあの元々その資材を あの移すのに近いということがあったかも わからんのですけども えっと長岡に関してはあのちょっと神部 天皇ってきっとそのマニアックな人やった んじゃないかなとそうですかえあのえっと と の宮殿があの日本は割とそのだだっ広い ところにちょっとあの造成をやってでえ 少しあのうんうんドタというかねあの え土を盛り上げて盛してその上に立てると いうやり方をやって高さを稼いどったん ですけども党の長安城っていうのはあの その天皇の住まいするところは結構高いん ですよねえはいあの第1になってるところ にえ建物を立ててそこからあのガロを走ら してるのでえ青木味方がちょっとあの違う みたいなんですわうわあみたいな感じで ええでそれを見て帰った検討士たちがあの ちょっと違うでということを多分言うたの かなとああそういう影響があるんですね 実際に見て長腕のええどっちかというと それに寄せたんちゃうかなという気がして ならんですねであの長岡っていうあのその あの第一の1番端っこところを使ってそれ と同じようにえ宮殿大国電を作ってみたん ですけどもあのさっきみたいにあの実際の その外交施設に見せるとかあの即位とかせ 大上祭とか正式なあの時のえ儀式に使うえ 街路とそれから大黒での他に普段の政務に 使うあの日田吹きのやっぱりあのえ宮が そのすぐ東隣にあないといかんとでさらに 言うならんそのえ平常教にもあるんです けども東宮とかそれからあのえ咲の三門 タジ天皇とかその工合ですね彼らのあの宮 も別別にそのえ政治局みたいな感じで作っ ていくのがこの時代のあの都の作り方なの でで手前になってしまってもどうにもなら へんなってしまっ大地の面積が稼げ へんかったんでねでそれであの宮子として 成り立たんなとであのまん洪水ということ はよう言われるんですけどはいはいそう ですねはいあの被害自体はそんなに受けた 形跡がないというのがあの調査でわかって いるようでしてでそんなに砂かぶってない のにということもあってでちょっと演技が 悪いなあということぐらいのあの過去つけ にはなるんですけどもねえであのそれを きっかけにあのやっぱり京都にえ映し ましょうという話がえま短い間ですけども 進んだけどもえうん は本気であそこにを作るであったんだろな ということはあの現地にて思いましたと あっと本気で名を最初作ろうと思って たってことですかえええあのはいだから 下手こいたらあそこにあの千年の見ができ たかもわからんとあなるほどいうことは あのもう特にあの地元の人は言ってます ああなるほどそう思いはあるんですね ええまあながちあのカの本気度っていうの はえ結構なもんやったやろなというふには あ ますこれえっと基本的にやっぱりその天皇 が住むところて言いますが大黒電はいとか はあの高台と言いますかこうやっぱり上 から見下ろした方が見下ろしたいと言い ますか権力をこう保持するためにそういう リチに置こうとしてたりすること多いん ですよねええやっぱ右方にこだわったん じゃないかなと思はいあのえっと奈良公園 がねいい例なんですけどもはいはいえっと も門とはほいんですけどもね えっと周にあの6Mぐらいの大を巡らして で門を作ったらあかんていうのはその頃 からのあのスザ工事に関してのあの 決まり事やったんでであのそうするとあの えそのも70mぐらい言うてもあの ちっちゃい運動場ぐらいの大きさがある その大きな道がドーンとあってでその正面 にそびえるというのがえそびえるとであそ であのよくいらっしゃいましたみたいな祝 をやるとかねま広場みたいなもんですから えそれが延々動え歩いていくとえいうそう いうその儀式チックなえものを平安教に 至るまでえ調定はその主にその大外的な 見え方としてうちはあの中華帝国に準ずる 大きな国やねんでということを見せるため の装置ということにこだわったんちゃうか なとなるほどはいやっぱりそう保持した いって保持か日本はちゃんとできるんだ よって言ってええそうそうそうそうです 中国みたいにやれま年でうちはとそうそう そうそうそういうはいなるほどそれの現れ でこういう都を作ったと言いますかはい はい都の基本的な構造はそれに貫かれて いるとうんうんうんえただ見えへんところ はもう手を抜いてもええのでえ中国みたい にあの巨大な城壁は別にいらんのでえ宮の 周りには作らないとうんうんふんうんはい ああそんな感じですかねああ面白かった ですありがとうございますいいえとんでも ないはいちょっとねもう時間もね1時間 ちょっとおっしゃってましてま途中でちょ 色々トラブルがあって申し訳なかったん ですけども初めてなかなか私もできなかっ たんですけども大体だからそういうことで ま都子っていうのはそういう大外的な要因 が多かったっていうのがはいはいあの出代 のこう色々見がったんですけどもまそう いうところはなかなか面白いかなととい そうですねずと塔抜きには語れないえ都の 変遷ということになると思そうなですよね だから日本だけじゃないよというえ特にそ 影響とま影響あったんでしょうけどもそれ を真似するだけじゃなくてこう逆にこう 保持すると言いますかはいはいそういう 側面もあったってところがえ見せていかな いかんなあというところがあったみたい ですねあなるほどなるほどありがとう ございますええちょっとじゃあとですね 最後になんかがありますかねオフ会とか なんか今後 の思いみたいあの通自体がですねええええ ええまあのオフ会に関してはあのま楽しん でやってるというところもあるのでまあの えっと企画はま僕1人でやるのではなくて あのえメンバーから意見を募ったりとか そういうこともあったりとかそれからあの 京都に詳しい人は京都とかそれからあの須 でもやったんですが須に詳しい人ははいで やってみたりとかねえあのまジバのことは 一番地元の人が知っているのであのそう いうところに意見を聞きながらあのま歴史 のマインドらしいちょっとあのマニアな ところをついたあのオフ会をしようかなと いうのはあのこの後も続けていこうと思っ てますしはいあのこの春もあの東京は正さ それから京都京都というかはいあの関西の 方はあの大津とかあのあの辺りのあのまた 紫式部に乗っかった感じであの平安時代の を中心に席を回ったりとかあのそういう ことをやってえおりますがこの後も続けて いきたいなとはいあのマーチンさんの方の ね配信とかもあのこんなことございました けどちょっとあのうまくあの一緒にやって いけたらいいなといういそうですねはい 思ってますねそのおフ会とか例えば今聞い ておられる方とかであの私のえっと視聴者 さんでももしま歴史に興味のある方も多い と思うんですけどもそういう歴史マインド とかにこう入ってもらったらまそうはい ところで一緒に交流とかもできたりは できるんです基本的にそんな悪る人はい ないと思うんですけどそうですまあの公開 グループなのであの別にあの見るのは何の 問題もなく見れると思いますしはいあの オフ会の告知はグループを通じてやるので できればあのあの参加言うてしてもらっ たらあのま一応審査っていうのはおかしい んですけどもねあのえ家は出すんですけど もあのそんなに資金の高いグループでは ございませんはいあのウェルカムでござい ますああウェルカムってこと良かったです これえ基本的にあれですね Facebookのあのグループですよね Facebookのそうですはいなので あの興味ある方はまたそっちの方も覗いて もらってですね入っていただければより こう歴史についてこう語り合えたりすると 思いますあ楽しいですよ帰りにあの飲み会 とかね本会でやったりとかねあれがまた 楽しいです会社で話せないのでそうですよ ねなかなかまたここでも喋れないような こともねこう色々喋れたりですとかああ そうですねねはいはいはいあじゃあすい ませんあのちょっともうだも楽しくて ありがとうございましたこちらこそ ちょっと今日のところは今回はですねこれ でちょっと終わりたいと思い ますでまたえっとね次回まだ見てですけど あ顔できましたあ私もちょっと出そううん ままた可能でしたら一応歴史マインドの方 で先ほど言われた通りえっと山さんにはい 登場できたらいあのお聞けたらいいかなと 思ってますはい彼はもうIT長者なので もうこんなもへっちゃらり行くと思います のではいまちょっとねお忙しいですからね ままた調整してですねはいまたえっと告知 なりさしてやらせてもらいてと思いますの ではいぜひぜひはいお願いいたしますねで 鈴木さんもまたまたえっとそのうちですね ここでまた一緒にこうはい出ていただけれ ば私もも回があればぜひはいはいまた別の テーマでねテーマいっぱいお申しでしまし しあの引き出しが多そうですからいっぱい いやいやいやいやいやいやまだそんな マーチさんございませんよいやいや私浅い です広く浅いですからねも深いですから 鈴木さんいやまたそんなそうあの先もね本 ちょっとね読み替えしてたんですけども やっぱりあの語彙力がすごいですねはい語 彙力語彙力っていうかあの言葉がね結構 あの色々あのえあの私も勉強なりますは その言いまして言いますか書物のはい なかなかあれはなかなかあの博学だなて いうの恥かしいですもうこんなおっさん ですのにもそんな勘弁してくださいもう はいじゃすいませんじゃあこういうところ で今日ははいもう終わにしたいと思います はいどうもありがとうございましたなな すいませんありがとうございましたいどう もこちらこありがとうございましたまた よろしくお願いしますお願いしますはい じゃあ失礼します皆さんご視聴どうも ありがとうございましたうご
このたび、以前より興味のあったYoutubeライブ配信にチャレンジすることとなりました。
まぁ~ちんチャンネルで過去に公開した動画をテーマに解説して、
ゲストをお招きして対談するスタイルで考えています。
1回目は、宮(飛鳥宮や平城京など)を取り上げる予定です。
ゲストは、歴史Mind(歴史を学ぶためのSocial Group)から鈴木淳さんです。
日本の歴史の本で、千年の都の生い立ちについて執筆されています。
一歩踏み込んだコアな話や、飛鳥宮跡の発掘に参加されたエピソードなどを聞けると思います。
初めてなので、不手際があるかもしれませんが、ぜひご覧ください。
<内容>
0:00 はじめに
1:10 自己紹介(鈴木淳)
8:18 平安遷都、平安京、平安神宮の概要(まぁ~ちん)
14:59 飛鳥宮の概要(まぁ~ちん)
21:15 大陸の影響を受けた都(以下、鈴木淳)
22:11 飛鳥宮以前の宮:山の辺の道が中心
24:20 推古天皇、崇峻天皇
24:50 朝鮮の状況
26:19 衝撃を受けた遣隋使
26:45 日出処の天子
27:30 隋書倭国伝
29:00 世界標準な官邸作り
30:15 太子道
30:40 裴世清の来日
32:10 蘇我氏
32:35 明日香のオンドル(床下暖房)
34:10 舒明天皇、皇極天皇
34:30 飛鳥寺
35:40 飛鳥宮
38:11 <鈴木さん切断>
50:50 <鈴木さん復活>
51:40 学問所としての飛鳥寺
52:00 瓦のお寺vs掘立て柱の宮
52:40 飛鳥宮の大極殿
53:30 エビノコ郭
54:15 藤原宮
55:10 呉、越の都
55:45 唐の長安の都
56:10 朱雀大路
56:30 外交使節を驚かす都の造り
57:10 藤原京(新益京)
58:20 基礎工事が弱かった藤原京
1:01:10 平城京
1:02:50 通常の政務と使節来日時の対応
1:04:50 聖武天皇の遷都→首都を拡げる拠点
1:07:02 ダブルの宮
1:07:30 長岡宮
1:10:30 遷都時の反対勢力(豪族の切り離し)
1:10:45 大津宮に遷都した理由
1:12:00 長安の仰ぎ見る圧倒さによせた長岡京
1:15:50 見え方にこだわった都
1:17:50 隋、唐抜きには語れない都の変遷
1:18:20 歴史Mindのオフ会
<関連動画>
・【神社巡り】平安神宮 & 桓武天皇(平安京へ遷都)
・【古事記】読下し 序文第2段(天武天皇の功績)&飛鳥浄御原宮
<関連図書>
・歴史愛好家のための日本の歴史 ~平安時代~
いま放映されてる大河ドラマの時代とタイアップした「平安時代」をテーマとした歴史本です。
https://rekishimind.thebase.in/items/83307843
大河ドラマの主人公である紫式部や藤原道長をはじめ、平将門など平安時代に活躍した人物達の生涯や様々な事件の真相について10名のライターが丁寧に書いています。
※銀行振込・クレジットカード・pay pay支払い対応可
【通常版:紙本】
https://andtech.co.jp/books/1eece1d4-952f-675e-9a30-064fb9a95405
【e-Book(電子書籍)版】
https://andtech.co.jp/books/1eece2de-d9db-6208-a04b-064fb9a95405
MAG.MOE - The MAG, The MOE.