チェーザレ・ボルジア, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=57118 / CC BY SA 3.0
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ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジア(イタリア語: Cesare Borgia, duca di Valentino 発音: [ˈtʃɛzare ˈbɔrdʒa]、スペイン語: César Borgia(セサル・ボルヒア)またはCésar Borja(セサル・ボルハ)、バレンシア語:Cèsar Borja、1475年9月13日(14日説有) – 1507年3月12日)は、イタリア・ルネサンス期の軍人・政治家。
なお、イタリアにおいては単に「チェーザレ」という名前は一般にガイウス・ユリウス・カエサル(ガイオ・ジュリオ・チェーザレ)を指すため、チェーザレ・ボルジアは現地では「ヴァレンティーノ公」(il Valentino)と呼ばれることが多い。
ロドリーゴ・ボルジアとヴァノッツァ・カタネイの子としてローマで生まれた。
チェーザレの同腹の妹弟としてフアン、ルクレツィア、ホフレ、異母兄としてペドロ・ルイスらが知られている。
また、ミケランジェロ・ブオナローティやジョヴァンニ・デ・メディチ(後の教皇レオ10世)がチェーザレと同じ1475年にイタリアで誕生している。
チェーザレの幼年期より、ロドリーゴは枢機卿にまで昇進し、ボルジア家の発祥の地でもあったスペイン・バレンシアではガンディア公位をペドロ・ルイスが承継していたものの、チェーザレは父の目の届くローマで暮らし、やがてピサやペルージャの大学で法律等を学んだ。
そのいっぽうで狩猟や武芸全般にも精を出した。
チェーザレは灰色の目及びオレンジ色の髪の毛を持つ大変な美男子だったといわれ、後にマキャヴェッリも「容姿ことのほか美しく堂々とし、武器を取れば勇猛果敢であった」とチェーザレの印象を書き残している。
チェーザレはロドリーゴの力添えにより、幼少の頃から以下の教会内要職を歴任した。
アレクサンデル6世 1492年8月に父ロドリーゴがアレクサンデル6世として教皇の座を得たこの年に、チェーザレはバレンシア大司教として異例の抜擢を受けた。
1493年9月に開かれた枢機卿会議において、アレクサンデル6世は会議の賛同を得て、チェーザレをバレンシア枢機卿に任命した。
これにより、アレクサンデル6世が教会内での自らのボルジア家の後継者を暗示する形となった。
1494年、フランス国王シャルル8世は、アレクサンデル6世に教皇選挙で敗れたジュリアーノ・デッラ・ローヴェレらフランスへ逃れた枢機卿や、ミラノ公国のルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)らと共謀し、王位継承問題が浮上していた親ボルジア派のナポリ王国の王位継承権の行使(ナポリ王家と縁戚関係にあった)を主張して、フランス軍をイタリアへと侵攻させた(イタリア戦争)。
フランスがミラノやフェラーラ等のイタリア諸国の協力も取り付けていたこともあり、ナポリ軍は敗北、フランス軍はルッカ、シエーナ等を押さえた。
有力なイタリア諸邦であったフィレンツェ共和国もロレンツォ・デ・メディチ死後のメディチ家の内紛状態により余力を失っていたことから、同年12月31日にシャルル8世は難なくバチカンへの入城を果たした。
この際に、チェーザレはアレクサンデル6世の特使として、シャルル8世との間を行き来したと伝わっている。
1495年1月、シャルル8世とアレクサンデル6世が「バチカンが預かっていたオスマン帝国の帝位継承者でもあったジェムの身柄をフランスが引き受けること」や「チェーザレをフランス軍の元に置くこと」等の内容の協定を結んだことから、チェーザレはバチカンを退去するフランス軍と共に南下してナポリ王国の占領にも立ち会う格好となったが、同月中にチェーザレはフランス軍の隙を見て、逃亡に成功した。
以降、アレクサンデル6世はイタリア諸国と同盟を結んで、フランス軍へ対峙した。
この間のチェーザレはローマに滞在したともされるが、その動向は掴み難い。
1497年6月、ボルジア家の旧領にあたるガンディアの公爵と教皇軍最高司令官を兼任していたフアン・ボルジアがピアッツァ・デッラ・ジュディッカ(ローマ市内のゲットー)で殺害される事件が起こった。
フアンと激しい敵対関係にあった枢機卿アスカーニオ・スフォルツァ (イル・モールの弟) やグイドバルド・ダ・モンテフェルトロ(ウルビーノ公)らと共に、チェーザレもフアンの殺害…
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