概要
1980年より毎年3月[注 1]に春休みの時期に合わせ公開されている(声優交代の行われた2005年と新型コロナウイルス感染症感染拡大の影響を受けた2021年を除く)。

大長編映画
1980年公開の『のび太の恐竜』から1997年公開の『のび太のねじ巻き都市冒険記』までは、映画公開の前年に藤本弘が同名の漫画(大長編ドラえもんシリーズと呼ばれる)の執筆に着手し、雜誌連載を開始するのが通例となっていた(例外の1作を除く)。藤本は「今年はこんな冒険をするんだよ」と家族に話すのが恒例だった。

この大長編漫画は「映画原作」として認識されているが、漫画の連載と映画制作は重なったスケジュールで行われていたため、実際には「連載途中の漫画」「藤本によるシノプシス」などを元に映画が作られた[注 2]。

1987年には藤本の入院により「大長編ドラえもん」は執筆されず、1988年公開の『のび太のパラレル西遊記』では、藤本の原案を元にもとひら了が脚本を執筆した。

1996年9月に藤本が逝去した翌年の1997年5月からは、藤子プロ、小学館、監督、プロデューサーらがまず話し合ってストーリーの骨組みを決定し、脚本家にシナリオを発注。完成したシナリオを元に映画が作られるようになった[1](『のび太の南海大冒険』以降)。これ以降の大長編漫画は、映画用のプロットとシナリオを元に執筆されている。

各作品ごとに新たにキャラクターデザインや美術設定が起こされることも多く、「レギュラー陣の普段着がテレビ版と比べて若干複雑なデザインとなる」「普段から馴染みの場所であっても背景としての書き込みがより細かくなる」といった特徴が出る場合がある。

同時上映
藤子不二雄のコンビ活動時代はドラえもん以外の藤子作品が同時上映されていたが、独立後は『ドラえもん』の短編も数多く作られ、同時上映された。『帰ってきたドラえもん』などの感動路線の短編の他、ドラミやザ・ドラえもんズが主人公のスピンオフ的な作品も作られた。

声優交代前の25作品にはすべて同時上映作品があったが(そのすべてがドラえもんに関連した短編とは限らず、藤子不二雄の他の作品の短編映画やその他の映画作品である場合もある)、交代の後の作品にはなかった。

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