急遽、鬼滅の刃の元ネタが「山の人生」ではないかという情報を見つけましたのでこの作品のオーディオブックを連日配信しておりましたが、今回で最終となります。山の人生シリーズをご視聴頂き、誠にありがとうございました。引き続きAI文庫を宜しくお願い致します。

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■一部抜粋 
山人考 大正六年日本歴史地理学会大会講演手稿

 私が八九年以前から、内々山人の問題を考えているということを、喜田博士が偶然に発見せられ、かかる晴れがましき会に出て、それを話しせよと仰せられる。一体これは物ずきに近い事業であって、もとより大正六年やそこいらに、成績を発表する所存をもって、取掛かったものではありませぬ故に、一時は甚だ当惑しかつ躊躇をしました。しかし考えてみれば、これは同時に自分のごとき方法をもって進んで、果して結局の解決をうるに足るや否やを、諸先生から批評していただくのに、最も好い機会でもあるので、なまじいに罷り出でたる次第でございます。

 現在の我々日本国民が、数多の種族の混成だということは、じつはまだ完全には立証せられたわけでもないようでありますが、私の研究はそれをすでに動かぬ通説となったものとして、すなわちこれを発足点といたします。
 わが大御門の御祖先が、始めてこの島へ御到着なされた時には、国内にはすでに幾多の先住民がいたと伝えられます。古代の記録においては、これらを名づけて国つ神と申しておるのであります。その例は『日本書紀』の「神代巻」出雲の条に、「吾は是れ国つ神、号は脚摩乳、我妻号は手摩乳云々」。また「高皇産霊神は大物主神に向ひ、汝若し国つ神を以て妻とせば、吾は猶汝疎き心有りとおもはん」と仰せられた。「神武紀」にはまた「臣は是れ国つ神、名を珍彦と曰ふ」とあり、また同紀吉野の条には、「臣は是れ国つ神名を井光と為す」とあります。『古事記』の方では御迎いに出た猿田彦をも、また国つ神と記しております。
 令の神祇令には天神地祇という名を存し、地祇は『倭名鈔』のころまで、クニツカミまたはクニツヤシロと訓みますが、この二つは等しく神祇官において、常典によってこれを祭ることになっていまして、奈良朝になりますと、新旧二種族の精神生活は、もはや名残なく融合したものと認められます。『延喜式』の神名帳には、国魂郡魂という類の、神名から明らかに国神に属すと知らるる神々を多く包容しておりながら、天神地祇の区別すらも、すでに存置してはいなかったのであります。

 しかも同じ『延喜式』の、中臣の祓詞を見ますると、なお天津罪と国津罪との区別を認めているのです。国津罪とはしからば何を意味するか。『古語拾遺』には国津罪は国中人民犯すところの罪とのみ申してあるが、それではこれに対する天津罪は、誰の犯すところなるかが不明となります。右二通りの犯罪を比較してみると、一方は串刺・重播・畔放というごとく、主として土地占有権の侵害であるに反して、他の一方は父と子犯すといい、獣犯すというような無茶なもので明白に犯罪の性質に文野の差あることが認められ、すなわち後者は原住民、国つ神の犯すところであることが解ります。『日本紀』景行天皇四十年の詔に、「東夷の中蝦夷尤も強し。男女交り居り父子別ち無し云々」ともあります。いずれの時代にこの大祓の詞というものはできたか。とにかくにかかる後の世まで口伝えに残っていたのは、興味多き事実であります。
 同じ祝詞の中には、また次のような語も見えます。曰く、「国中に荒振神等を、神問はしに問はしたまひ神掃ひに掃ひたまひて云々」。アラブルカミタチはまた暴神とも荒神とも書してあり、『古語拾遺』などには不順鬼神ともあります。これは多分右申す国つ神の中、ことに強硬に反抗せし部分を、古くからそういっていたものと自分は考えます。

 前九年・後三年の時代に至って、ようやく完結を告げたところの東征西伐は、要するに国つ神同化の事業を意味していたと思う。東夷に比べると西国の先住民の方が、問題が小さかったように見えますが、豊後・肥前・日向等の『風土記』に、土蜘蛛退治の記事の多いことは、常陸・陸奥等に譲りませず、更に『続日本紀』の文武天皇二年の条には太宰府に勅して豊後の大野、肥後の鞠智、肥前の基肄の三城を修繕せしめられた記事があります。これはもとより海※U+21A25272-6の御備えでないことは、地形を一見なされたらすぐにわかります。土蜘蛛にはまた近畿地方に住した者もありました。『摂津風土記』の残篇にも記事があり、大和にはもとより国樔がおりました。国樔と土蜘蛛とは同じもののように、『常陸風土記』には記してあります。
 北東日本の開拓史をみますると、時代とともに次々に北に向って経営の歩を進め。しかも夷民の末と認むべき者が、今なお南部津軽の両半島の端の方だけに残っているために、通例世人の考えでは、すべての先住民は圧迫を受けて、北へ北へと引上げたように見ていますが、これは単純にそんな心持がするというのみで、学問上証明を遂げたものではないのです。少なくとも京畿以西に居住した異人等は、今ではただ漠然と、絶滅したようにみなされているがこれももとよりなんらの根拠なき推測であります。
 種族の絶滅ということは、血の混淆ないしは口碑の忘却というような意味でならば、これを想像することができるが、実際に殺され尽しまた死に絶えたということは「景行天皇紀」にいわゆる撃てばすなわち草に隠れ追えばすなわち山に入るというごとき状態にある人民には、とうていこれを想像することができないのです。『播磨風土記』を見ると、神前郡大川内、同じく湯川の二処に、異俗人三十許口ありとあって、地名辞書にはこれも今日の寺前・長谷二村の辺に考定しています。すなわち汽車が姫路に近づこうとして渡るところの、今日市川と称する川の上流であって、じつはかく申す私などもその至って近くの村に生れました。和銅・養老の交まで、この通り風俗を異にする人民が、その辺にはいたのであります。
 右にいう異俗人は、果していかなる種類に属するかは不明であるが、『新撰姓氏録』巻の五、右京皇別佐伯直の条を見ると、「此家の祖先とする御諸別命、成務天皇の御宇に播磨の此地方に於て、川上より菜の葉の流れ下るを見て民住むと知り、求め出し之を領して部民と為す云々」とあって、或いはその御世から引続いて、同じ者の末であったかも知れませぬ。
 この佐伯部は、自ら蝦夷の俘の神宮に献ぜられ、のちに播磨・安芸・伊予・讃岐および阿波の五国に配置せられた者の子孫なりと称したということで、すなわち「景行天皇紀」五十一年の記事とは符合しますが、これと『姓氏録』と二つの記録は、ともに佐伯氏の録進に拠られたものと見えますから、この一致をもって強い証拠とするのは当りませぬ。おそらくは『釈日本紀』に引用する暦録の、佐祈毘(叫び)が佐伯と訛ったという言い伝えとともに、一箇の古い説明伝説と見るべきものでありましょう。
 サヘキの名称は、多分は障碍という意味で、日本語だろうと思います。佐伯の住したのは、もちろん上に掲げた五箇国には止りませぬが、果して彼らの言の通り、蝦夷と種を同じくするか否かは、これらの書物以外の材料を集めてのちに、平静に論証する必要があるのであります。

 国郡の境を定めたもうということは、古くは成務天皇の条、また允恭天皇の御時にもありました。これもまた『姓氏録』に阪合部朝臣、仰せを受けて境を定めたともあります。阪合は境のことで、阪戸・阪手・阪梨(阪足)などとともに、中古以前からの郷の名・里の名にありますが、今日の境の村と村との堺を劃するに反して、昔は山地と平野との境、すなわち国つ神の領土と、天つ神の領土との、境を定めることを意味したかと思います。高野山の弘法大師などが、猟人の手から霊山の地を乞い受けたなどという昔話は、恐らくはこの事情を反映するものであろうと考えます。古い伽藍の地主神が、猟人の形で案内をせられ、また留まって守護したもうという縁起は、高野だけでは決してないのであります。
「天武天皇紀」の吉野行幸の条に、※31-87-81者二十余人云々、または※31-87-81者之首などとあるのは、国樔のことでありましょう。国樔は「応神紀」に、其為人甚淳朴也などともありまして、佐伯とは本来同じ種族でないように思われます。『北山抄』『江次第』の時代を経て、それよりもまた遙か後代まで名目を存していた、新春朝廷の国栖の奏は、最初には実際この者が山を出でて来り仕え、御贄を献じたのに始まるのであります。『延喜式』の宮内式には、諸の節会の時、国栖十二人笛工五人、合せて十七人を定としたとあります。古注には笛工の中の二人のみが、山城綴喜郡にありとあります故に、他の十五人は年々現実に、もとは吉野の奥から召されたものでありましょう。『延喜式』のころまでは如何かと思いますが、現に神亀三年には、召出されたという記録が残っているのであります。
 また平野神社の四座御祭、園神三座などに、出でて仕えた山人という者も、元は同じく大和の国栖であったろうと思います。山人が庭火の役を勤めたことは、『江次第』にも見えている。祭の折に賢木を執って神人に渡す役を、元は山人が仕え申したということは、もっとも注意を要する点かと心得ます。
ワキモコガアナシノ山ノ山人ト人モ見ルカニ山カツラセヨ
 これは後代の神楽歌で、衛士が昔の山人の役を勤めるようになってから、用いられたものと思います。ワキモコガはマキムクノの訛り、纏向穴師は三輪の東に峙つ高山で、大和北部の平野に近く、多分は朝家の思召に基いて、この山にも一時国樔人の住んでいたのは、御式典に出仕する便宜のためかと察しられます。
 しからば何が故に右のごとき厳重の御祭に、山人ごときが出て仕えることであったか。これはむつかしい問題で、同時にまた山人史の研究の、重要なる鍵でもあるように自分のみは感じている。山人の参列はただの朝廷の体裁装飾でなく、或いは山から神霊を御降し申すために、欠くべからざる方式ではなかったか。神楽歌の穴師の山は、もちろんのちに普通の人を代用してから、山かずらをさせて山人と見ようという点に、新たな興味を生じたものですが、『古今集』にはまた大歌所の執り物の歌としてあって、山人の手に持つ榊の枝に、何か信仰上の意味がありそうに見えるのであります。

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